抗生物質療法のメーリングリストを運用し始めた大木統雄です。自己紹介と「マイストーリー」を書きます。
愛知県名古屋市外に1969年から住んでいます。出身地は千葉県佐倉市です。今年の誕生日で還暦を迎えるお爺さんです。発病は1985年、コンピュータのソフト開発をする会社を作って5年目小さいながらも社屋が完成し、喜んでいたのも束の間で大変ショックを受けたのを覚えています。
早速近くの整形外科の病院で金剤(シオゾールの注射)による治療をスタートしました。これがとても良く効いたので、治ったと思い治療半ばでやめてしまいました。今にして思えば最近はよく言われるようになった「発病初期に攻撃的に治療して、始めの3〜4年に最も進行する関節などの破壊を最小限に留める理想的な治療だったのですが当時はそんな事は全く知らないただの仕事人間ででした。
その内じわじわと病気が進行し、7年後の1992年に「第二の爆発」と勝手に呼んでいる激しい症状の悪化が起こり、毎日寝たきりの悲惨な生活が数ヶ月続きました。70kgの体重が60kg近くまでへって「しっぽ」の骨が痛くて椅子に腰掛けるのが辛いぐらいでした。それからはブレドニン、各種の抗リウマチ薬、非ステロイド系消炎鎮痛薬で治療を続けましたが、悪化の一途をたどり、痛みは薬である程度治まりましたが、炎症が高い為のとてつもない疲労感(前進倦怠感)に悩まされ、事業も内容がどんどん悪くなり、家族を養う立場の所帯主として寝られぬ日が続きました。
会社も実質的に閉めて家内のがんばりと、僅かな傷害年金をたよりに細々と暮らしている時に、いっそ僅かな内職程度の仕事をストップして、インターネットで海外の治療、薬品情報を探し回ってなんとか仕事に復帰しようと思い立ちました。まず色々なホームページを見て回りましたが、所謂宣伝のような物をいくら見ても仕方が無い事に気づき、ニュースグループに参加する事にしましたここでは多くの参加者の経験、時折飛び込んでくる悪質な商売人達を見事に撃退するベテラン達の活躍をみて、大変勉強になりました。
ここで多くのものを学びましたが、最大の物は「貴方に効く薬や療法が必ずあるから、医者があきれても、しつこく薬を試してみる。言い換えると受身ではなく、自分から学んで、医者に相談する。」と言う事であったと思います。早速当時かよっていた国立病院リウマチ外来の先生に此方で調べた事をメモに書いて持参し、自分に合った抗リウマチ薬、消炎鎮痛剤さがしを根気良くいたしました。
成功でした。抗リウマチ薬としてリマチルが効きました。消炎鎮痛剤は座薬で時々痛い時に限って使っていたヴォルタレンを朝昼夕の三回錠剤を飲むように変えましたら、3ヶ月程後に12以上有ったCRPが3.3とかに下がってきました。最初は迷惑そうで不機嫌だったドクターが此方が前向きに、なにやら勉強しているらしいと思って共同作業が大変上手く行くようになりました。
抗生物質療法についてはインターネットで情報さがしをし始めたときに有名な2つのページを見つけたのですが、良く効いたという患者の声がずらりと並んでいるのをみて、新聞の折り込み広告のクロレラとか最近良く聞くジンジャーエキスの様な感じがしたのと、ニュースグループで大論争が繰り返され、どちらかと言うと否定的な意見が多く、あまり近寄らないようにしてきました。ところが、忘れもしない98年のクリスマスの日に一通のメールが飛び込んできたのです。それは日本の婦人で米国人と結婚してロサンジェルスに住んでいる方からのメールでした。抗生物質療法で成功したので、元同胞でリウマチに苦しむ人に伝えたいと言うもので、ご自分のホームページを紹介してくれました。
http://www.geocities.com/Athens/Crete/7596/
でも先に書いたように懐疑的な私でしたので、生はんかな返事で何回かメールのやり取りをしている内に、だめもとでいいから少し勉強しようと、下手な英語で文献を読むうちに、此れこそ私が探し求めてきた治療法では無いかと気が付きました。すぐに国際的なメーリングリストに参加し、メールを必死になって読みました。同時に初歩的な疑問や、どうやってドクターを探したら良いのかを尋ねました。沢山のアドバイスが寄せられたのは言うまでも有りません。でも日本のドクターは知らないという結果でした。その頃上に書いた米国女性もドクター探しに積極的に活動して呉れました。有名なハーバード医科大学のトレンザム(Dr.Trentham)にもメールで問い合わせて下さって、その時ドクターは「私がマニラでセミナーを開いたときに、日本のドクターが多数来ていたので、きっと見つかるでしょう。もしその日本人が薬を処方してくれるドクターを見つけられたら、そのドクターを私がFAXでサポートしましょう。」と仰ったそうです。
私は発病以来頭皮や顔面に湿疹が出来て悩ませられて来ましたが、この治療でお世話になっている皮膚科のドクターに相談したところ、私が処方してもいいけど、リウマチのことは良く分からないから製薬メーカーの線で少し調べて上げましょうと言って、ミノマイシンをリウマチの患者で試した経験のあるリウマチ専門医を紹介して呉れました。さっそくはやる気持ちを沈めながら、このドクターの診察を受けました。恐る恐る抗生物質療法の話をし、ミノサイクリンを処方してくれるように頼みました。しばらくの話し合いの後希望の処方を頂く事が出来ました。今思い起こすと、この時のドクターのご理解が私の運命を決めたように思います。米国の仲間の話ではドクター探しとドクターとの交渉に数ヶ月を要する事が多いことを聞くにつけ私の幸運とドクターのご好意を感謝せづにはおりません。
だいぶ長々と書いてしまいましたね。この辺で終わります。この続きは明日の心だ(意味不明、だれかのものまねです)
では、おやすみなさい。(つづく) 大木統雄 2000年 2月2日 22時
自己紹介[abt 4]を書いてからだいぶ日が経ってしまいました。前回はこの療法を始めたいきさつから、薬の処方箋を頂くまでを書きました。
開始した時点では、大きな流れから言うと、リウマチが改善する傾向がある時期であったと思います。それも新しい期待の持てそうな療法に取り組むと言う気持ちが良い方向に導いたのかもしれません。この1999年は体調は比較的良かったのに対して、我が家のもろもろの心配事が多いなかでのスタートでした。千葉に弟と暮らしていた父親が白内障の手術、耳が遠くなった事、肺炎で一時危険な状態になった事、自分の障害者の娘の健康が下り坂で、入退院を繰り返していた事、更にもう一つの心配事が突然発生しました。インターネットのニュースグルプ、関節炎のサポートグループを通じて知り合ったロンドンのメール友達が突然日本に、それも私の住んでる名古屋に用事で来るという知らせが3月に有りました。此れ自体は大変嬉しいく、楽しい事のはずですが、私にとっては大変なショックでした。なぜかと言うとメールで読み書きは何とか出来るように成っていましたが、会話はまったく経験がなくこまりはててしまいました。無駄とは知りながら正に泥縄式に英会話の勉強をしました。パソコンで動く英会話の教材をはじめたり、英国の英語になれる為にBBCのWorld
Serviceを毎日聞いたりしましたが、来日の日はどんどん迫ってきて準備は少しも進まず困り果てて、娘を東京から呼び寄せて通訳として初対面の席に同席させましたが、窮すれば通ずという訳で、心配したほどの事も無くなんとか意思の疎通が出来楽しい時を過ごす事が出来ました。
http://www.okmicro.co.jp/Char/ 7月
http://www.okmicro.co.jp/Gimpfest2Nagoya/ 9月
丁度その頃、家内が私の体の変化に気がつきました。「なんだか変だよ」と言うのです。動きがスムースに成ったようだとも言われました。そういえば友達の案内の下見だとか何かで、家に篭りっきりであった私が毎日のように外に出かけていました事も不思議でした。なんせ1ヶ月前には階段の上り下りも手すりにすがって「蟹さん歩き」でしたのに、手すりにも触れずに上下できるように成っていました。しばらく(1週間ほど)すると関節の腫れが挽いてきて、痛みも殆ど忘れるようになっていました。吃驚したのは、靴がだぶだぶになって、一回り小さいものに変えなければならなくなった事です。此れがAntibioticsをのみ始めて75日以後の事です。この後リウマチドクタの診察日の血液検査の結果では炎症反応が確かに下がりましたが、その他のRA,RAHAなどは現在でもあまり変わっていません。でも私の最大の悩みは、痛さよりも全身の疲労感がとても強くエネルギーのレベルが低いという事でしたが、これは劇的に改善されました。握力の検査、そうあのリウマチの人用に使われる水銀柱で計るやつで、以前は80ミリが精一杯のところを180ミリまでになりました。早速、本家のメーリングリストに報告した事は言うまでもありません。沢山のコメントを頂きましたが、私の場合「稀で、幸運なケースである」と言われました。
この好調は7月から1月まで持続しました。2月に入ると少し痛みが戻ってきましたが、日常生活の不自由さは無く、元気に暮らしています。父親も8月の半ばに永眠しましたが、私の心配事は、リウマチの為に父を見舞ったり葬式にも行けない事でしたが、この心配も無くなり無事に見送る事が出来たのもこの改善のお陰だと思っています。今進行中の方の参考になるかどうか分かりませんが、何か仕事、生活、趣味などの楽しい事、明るい側面を療法の進展と絡めて行くようにすると良いのではないかと強く感じました。私自身所謂「positive
thinking」なるものを好きになれませんし、落ち込み始めたらとことん落ち込んで、自然に環境が良く成るのをひたすら待つという生活パターンが好きだし、大体そうやって生きてきたのですが、この間の自分は正に正反対の「前向き姿勢」で来れた事が不思議でなりません。ミノマイシンの服用量はこの「好転」の時はまだ100mgか150mgだったと記憶しています。200mgに到達できたのは8月中ごろでした。今最後の大きな好転の前の「Herx
Reaction」をじっと待っているところです。また長々と書いてしまいました。お付き合いいただいた皆さん有難う御座いました。
2000年 3月19日 大木のりお